(2)明治~戦後の動乱(1884年~)

県下屈指の大地主へ成長。公共慈善にも努める。

二代 谷 仲吉

初代仲吉の養嗣子仲吉(1870~1930、延岡の豪商「山長」の三男 明治17年戸主)は家督相続後、義父の興した諸事業を拡大させつつ、先代以来の商業活動で稼得された膨大な資本を新田開発や農地の買収等に投下、田畑・山林を意欲的、且つ大量に集積、県下屈指の大地主に成長してゆく。

更に、山林では積極的に植林を進める一方、農業部門では試験田の設定、先進地からの農工具や優良苗の導入、牛種改良、農林産品の内国勧業博覧会等へ出品等、農事改良や日向産品の全国的普及に努力した。

又、延岡尋常小学校新築費の寄付、当時頻発した各町村の大火罹災者への救援、大正3年(1904年)の鹿児島県桜島大噴火に際しては罹災者に五百円の義捐を行う等、その生涯を通じ窮民救済等、公共慈善に努めた。昭和5年(1930年)没。

大正15年(1926年)における谷家の納税額は、旧藩主内藤家に次いで宮崎県内第2位(大正15年発行「貴族院多額納税者名鑑」より)、昭和に入ると第1位(昭和5年発行「全国多額納税者一覧」より)と確固たる地位を確立する。
この様な各種事業の成功は、県内屈指の豪商 藤屋(商号は入山久)として、その名を京阪地方まで知らしめる事になる。

二代仲吉の長男秀一郎(1889~1926)は病を得て37歳で早世した。
其の為、秀一郎の長男正(1912~1989)が三代仲吉を襲名して家督相続、当初は祖父の後見を得つつ太平洋戦争終結までの間、相伝された広大な農地や山林と多数の小作人の管理に勤める事になる。

参考文献

  • 織田正誠編「貴族院多額納税者名鑑」
    株式会社大洋堂出部(大正15年3月5日発行)
  • 「全国多額納税者一覧」
    東京尚文社調査(昭和5年発行)
  • 延岡市教育委員会「谷家資料に見る商家の彩」
    市制施行70周年記念展(2003年11月22日)
  • 「成功の鏡」&「谷 仲翁の寿宴」
    日州新聞 鬼笠 某(明治42年5月)
    旭新聞(同年)
  • 「宮崎県大観」
    宮崎県大観編集部(大正4年6月24日発行)

大戦後の社会改革により、大地主から土地管理会社へ

太平洋戦争の敗戦後、連合国軍占領下の日本において強行された一連の社会改革、就中、昭和21年(1946)の財産税施行、同年の改正農地調整法による第一次農地改革、続いて施行された自作農創設特別措置法による第二次農地改革により谷家の家産の蒙った打撃は致命的であり、大地主としての谷家はこの時点でほぼ解体されるに至った。

社会改革により九割強の資産を喪失したとはいえ、終戦直後のハイパーインフレ-ション下に於ける財産税延納措置、朝鮮戦争の勃発による林野解放政策の頓挫等、当時の政治経済情勢にも援けられ、山林を始め一部の市街地が谷家に残存される事になった。
この残余資産の管理を目的として、昭和26年11月24日、谷合名会社が設立された。
戦災復興が喫緊の課題であった当時、焦土と化した宅地の簡便な収益化は土地自体の直接賃貸であった。この経営手法は即効性がある反面、地代収入に大幅に依存する財務構造を作る結果となった。
マイナス影響は直ぐに顕在化した。即ち、戦後インフレーションの昂進に伴い物価水準は年々上昇の一途を辿ったが、反面、肝心の地代値上げは借地借家法や建物保護法等に掣肘されて困難を極め、谷合名会社の営業収入は年々漸減してゆく事となった。

戦後、上記の外に様々な新規事業を立ち上げたが、当時の不完全なマネージメントが災いして、管理技術が比較的簡易な冷蔵倉庫業を除き、その悉くが失敗に終わる結果となった。

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