(1)「藤屋」創業(1821年~)

日州延岡藩町家中金持商人番付一覧(部分)

近江国蒲生郡日野(現 滋賀県蒲生郡日野町)出身の谷栄助は、文政4年(1821年)、息子五兵衛を伴い日向国延岡に転住、近江商人の「質素、倹約、信用」等の職業倫理、並びに、所謂「三方よし」の商法によって延岡・内藤藩有数の商家「藤屋」(藤屋五兵衛-藤五)を築いた。

嘉永5年(1852年)二代五兵衛が藤五を継承、事業は更なる発展を遂げた。その後の繁盛の模様は 文久2年(1862年)5月下旬発行の「日州延岡藩町家中金持商人番付一覧」に、同店が既に『東の横綱』として掲載されている事から窺い知る事が出来る。


二代五兵衛の次弟仲吉(1839~1909)は兄の経営に協力し、安政5年(1858年)に内藤藩から下命を受けた上納金を皆納した功により支配郷士、次いで文久2年(1862年)に組外役人御目見部への沙汰をうけた。

文久3年(1863年)、藤五から金500両の分与を受け分家、新たに「藤屋」(藤屋仲吉-藤仲)の屋号で荒物商を開業した。

初代 谷 仲吉 廻船業に使用した千石積和船

ほどなく山産物・海産物を取り扱う交易事業に着手、慶応2年(1866年)には延岡―兵庫の航路で和船を就航させ廻船業を兼営、所謂「のこぎり商法」(日向の木炭、椎茸、木材等の一次産品を上方に、上方の太物や雑貨等、先進地の加工品を地方にもたらし、往復とも商う商法)を実践、更に和船航海法の改良、新田開墾、土地改良、山林経営等へ事業を次々に展開した。
更に、美々津県御用掛、延岡藩務の宮崎縣庁引継事務委員、旧藩貨幣受取方や官金取扱人等の公職を歴任した。

その生涯は幕末~明治の動乱期において、旧藩時代すでに衰退の途上にあった城下町特権商人の命運とは裏腹に、自由な発想で幕末維新の変革期を肯定的に生き、幾多の浮沈を経験しつつも、新時代の商業のあり方を体現し巨富を成すに至った新興商人のそれであった。
晩年、株式会社宮崎農工銀行(明治30年10月設立)の設立委員、株式会社延岡銀行(明治32年4月設立)の設立、その初代頭取。明治42年(1909年)没。

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